即興演奏のプロセス

即興演奏を具体的に理解するため、音楽と言語を比較してみます。言語は音楽と同様に表現形態のひとつであり両者は類似しています。言語の形態には、読む事、書く事、聞く事、そして話す事の4つがあり、どんな言語も習得するためには、この4つを学ぶ必要が有ります。どれも重要ですが、まず簡単なコミュニケーションが取れるようにするためには話す事と聞く事が大切です。話すことは同時に自分自身の言葉を通して聞く訓練にもなり、話す事から習い始めるのが言語学習の最善の方法であることがわかります。話す事は音楽では即興的に演奏することにあたります。友人に話をするとき、頭の中にある考えを言葉に表しますが、それは即興的に作られた言葉であって、目の前に「楽譜」を用意して会話をするのではありません。即興性がなければ状況に応じた柔軟性や実用性が損なわれてしまいます。言い換えれば、即興なくしては音楽の独創的な芸術性が損なわれてしまうということです。そして話した内容、つまり即興的に行った演奏を耳を使って音楽的に吟味し演奏に反映する事が「耳で演奏する」ことにつながります。では具体的にはどうしたら即興的な演奏を行う事が出来るのか、即興演奏の流れを言語の「話す」プロセスと比較しながら考えてみましょう。次の文章をみてください。

 

文例 : 「晴れて気持ちのよい天気であったある日の午後、私は自分の傘を持って近所の市場へ捕れたての鮭を買いに歩いて行きました。」

 

一見しただけでは内容が把握できないややこしい文章ですね。この内容をあなた自身が話す場合、自分の言葉でどう表現するか考えてみてください。そしてその作業の中で、どのような思考の手順があるのかを考えてみてください。恐らくこの文章を自分の表現で言い換える前に、最も単純な文形に直す必要があったのではないでしょうか。例えばこんな感じです。

 

文例 : 「私は市場へ魚を買いに行きました。」(簡素化)

 

この単純形が重要なのです。別の例として、あなた自身が保育園の園児であった頃を想像してみてください。言葉の学習では難しい言葉を覚える前に、まず最初に一番簡単な形を先生から教わったと思います。複雑な形では応用が困難になってしまいます。同様に音楽を即興演奏する場合も、あるいは学ぶにあたっても、いずれも曲を最も単純にした形から始める必要があります。幸いそれが楽譜として書かれているものが存在し、フェイクシートと呼ばれています。原曲を隅々まで完全コピーした楽譜とは異なり、即興演奏に必要最小限の形だけが記載され、必要な情報を素早く読み取ることができます。

 

さて、単純化された曲の基本形が用意できたら、それを基に即興で演奏を始めることができます。フェイクシートには、右手の単音メロディーと、コードだけが書かれています。「メロディー」と「コード」という二つの要素は曲の骨組みとなるもので、即興演奏に必要不可欠なものであると同時に、即興演奏の良い学習材料となります。その中でまず重要なのがコードの使用です。コードは曲を形作るパーツであり、メロディーはコードに基づいて音が割り当てられています。そこから分かるように、即興的に弾くメロディーもやはりコードに基づき作り出すことができます。そして音楽性や独創性をより高めるため、演奏中に耳を使って音を吟味し、その結果を演奏に反映していくことが必要です。耳を使うことによって、音楽的に洗練されたメロディーを選り出し、またコード自体を置換して新しい表現を試みる事も可能で、最終的には即興的に新しい曲を生み出すことさえできるようになります。これが「耳で演奏する」という事です。「耳で演奏する」事を学ぶ為には、まず聞く事ではなく、むしろ話すこと、即興的な演奏を繰り返し練習することが大切で、自分自身の即興演奏を聞く事を通して「耳で演奏する」ための耳を養っていくことができます。つまり、耳で演奏する技術(聞く事)は即興演奏(話す事)を通して学ぶことができ、これらは相互に関わり合っているのです。

 

ところで、即興演奏によって楽譜を読む必要が無くなる一方で、即興演奏のためにフェイクシートという楽譜が使用されるのは、なぜでしょうか。私たちは耳で演奏するのであり、覚えて演奏するのではないのです。知っている曲は頭の中でコードを構成し紙に何も書かなくても耳だけで演奏する事が出来ます。しかし音楽市場に何百万と存在する曲の全てを知っているわけではありません。そこで、知らない曲でもその場で即興演奏を始めることができるよう、フェイクシートが用いられるというわけです。では結局「耳で演奏することを学ぶ為に音符を読まなければならない」のでしょうか。そうともそうでないとも言えます。すでに音符を読む事が出来るのであれば、豊富に存在する学習材料が大いに役立つでしょうし、音符を読めずそれを学びたくないとしても、耳で演奏することを学ぶ事はできます。耳で演奏する独学演奏家でも音符が全く読めない人は少なくありません。慣れない音符を一つ一つ読み取るのは大変骨の折れる作業で、音楽をやめてしまう主な理由の一つにさえなっています。幸いフェイクシートは今までの楽譜とは大きく異り、左手と右手それぞれに対して書き記された多くの音符を逐一読まなければならないなどという事は無く、右手用の単音メロディーとその上に記載されたコードだけが書かれ、読むのが非常に簡単になっています。

 

このように言語との比較を通して即興演奏の流れがお分かりいただけたと思います。今までのように複雑な両手のピアノ譜に従って演奏する代わりに、曲の最も単純な骨組みであるメロディーとコードだけを使って、あとは思い通りに自由に音楽を表現する事ができるのです。そんな新しい音楽の魅力を探ってみたいと思いませんか。